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千々石ミゲルの墓と思われる石碑

 

以前ひとりでぼんやりドライブしていた時、ふと道路脇の表示が目に入り、

少々行きつ戻りつした末に見つけた千々石ミゲルの墓碑。

天正遣欧少年使節としてヨーロッパへ行って帰ってきた四人の少年のうち、

ミゲルだけが帰国後に棄教したということは知っていた。

けれど、棄教後どのような人生を送ったのか、

いつどこで亡くなったのかなどはよく知らなかったので、

こんな近くに墓があったということに驚いた。

調べてみると平成15年(2003年)に発見されたものらしい。

 

ミゲルが棄教した理由についてはよくわかっていない。

 

少年使節を扱った若桑みどりの大著『クアトロ・ラガッツィ』には、

日本からマカオに留学するメンバーに

選ばれなかったことをきっかけとしたイエズス会脱会、

また別の説として宣教師たちが残した記録などから

信仰への疑問を抱くようになったという理由が挙げられている。


皆川博子の小説『夏至祭の果て』には、

棄教後の千々石ミゲルが千々石清左衛門という名前で登場する。

作中で描かれる彼の棄教の動機としては、

ヨーロッパへの往復中に立ち寄った町などでキリスト教徒たちが

現地の人々を奴隷のように扱っていたり、

同じキリスト教徒なのに異端者が処刑されたりする光景を目にしてしまったこと、

日本で布教を進め信者たちの援助を得て日本を征服しよう

という企みを知ってしまったことなどが描かれている。

 

棄教後のミゲルは千々石清左衛門と名を改め、大村藩に仕え、

現在この墓石のある多良見の伊木力に領地を与えられた。

しかし藩主の大村喜前とも不仲になり、晩年は隠棲するように暮らしたと言われている。

 

亡くなったのは1633年の1月。

調べてみるとその少し前に中浦ジュリアンが小倉で捕縛され長崎に送られている。

遅くとも1601年には脱会していたと見られる千々石ミゲルと、

禁教下の日本に潜伏して20年以上にわたって地下活動を続けていた中浦ジュリアンは

ほぼ同じ時期に、さほど離れていない場所で亡くなっていた。

かつては苦楽を共にし、しかし結局全く異なる道を歩んだ二人の

それぞれの後半生がどんなものだったかかと考えると、胸に迫ってくるものがある。

その間ジュリアンとミゲルが接触することはあっただろうか、

かつての同志ジュリアン捕縛の報をミゲルは耳にしただろうか。

 

ところでつい先日、2014年9月20日付の長崎新聞でこんな記事を見た。

 

領主級の墓の基壇が出土(長崎新聞ホームページ)
 

石碑の周りの発掘調査をしてみたところ、かなり立派な基壇が出てきたとの記事。

ミゲルがどのような晩年を過ごしたのかはわからないけれど、この記事にあるように

「立派な墓なので最晩年は地域から親しまれていた可能性が高い」ということであったらいいなあと思う。
 

[アクセス]

場所はちょっと説明しにくいんですが、長与から県道33号線を多良見方面へと向かい、野川内から山川内へと入って行き、写真二枚目のJRの線路の下を通るレンガのトンネルの脇道を上がったところ。このトンネルのところに「千々石ミゲルと見られる墓石」というちょっとおかしな日本語の表示があります。

 

[リンク]

諫早市ホームページ

 

[本]

・大石 和久 『千々石ミゲルの墓石発見』

・若桑 みどり 『クアトロ・ラガッツィ』 上・下

・皆川 博子 『皆川博子コレクション2 夏至祭の果て』 

・村木 嵐  『マルガリータ』

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