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日本のキリシタン関連人物

大名・武将

島津 貴久(1514-1571)

島津氏第15代当主。ザビエルに布教の許可を与えるも後に禁止する。 

洗礼は受けていない。

 

松浦 隆信(1529-1599)

松浦氏第25代当主。ザビエルに平戸での布教を許可するが、

仏教徒との軋轢もあり結局宣教師を追放する。洗礼は受けていない。

 

籠手田 安昌(1508-1557)

松浦家の重臣。洗礼を受けてキリシタンとなる。

 

籠手田 安経(1532-1581)

安昌の子。父とともに受洗。霊名はアントニオ。

 

籠手田 安一(1553-?)

安経の子。霊名はジェロニモ。

1599年(慶長4年)、迫害を避けて平戸から家族と600人の信徒を連れて長崎へ出奔。

 

一部 勘解由(? - ?)

松浦家筆頭家老。籠手田安昌の次男で安経の弟。霊名はジョアン。長崎へと出奔。

 

大内 義隆(1507-1551)

大内氏第31代当主。ザビエルに謁見。山口での布教の許可を与える。

洗礼は受けていない。

 

大友 義鎮(宗麟)(1530-1587)

ザビエルに布教を許可。1578年にカブラルから受洗。

洗礼名はドン・フランシスコ。「府蘭」の署名を用いる。

 

大友 義統(1588-1610)

宗麟の長男。洗礼を受けるが(洗礼名はコンスタンチノ)、秀吉の棄教令直後に棄教

 

大友 親家(1561-1641)

宗麟の次男。田原親家。洗礼名はドン・セバスチャン。

 

大友 親盛(1567-1643)

宗麟の三男。田原親盛。洗礼名はパンタレアン。

 

大村 純忠(1533-1587)

コスメ・デ・トーレスから洗礼を受けた日本最初のキリシタン大名。洗礼名はドン・バルトロメオ。

ポルトガルに横瀬浦を提供。長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進。

ヴァリニャーノと天正遣欧少年使節の派遣を決定。

 

大村 喜前(1569-1616)

純忠の長男。洗礼名はドン・サンチョ。後に棄教、キリスト教徒を弾圧。

 

有馬 義貞(1521-1577)

肥前国の大名。大村純忠の兄。カブラルから洗礼を受ける。洗礼名はアンドレス。

 

有馬 晴信(1567-1612)

義貞の長男。1580年(天正8年)に受洗。

妻は大村純忠の娘ルチア。洗礼名はドン・プロタジオ。

有馬にセミナリヨ開校。岡本大八事件で死罪に。

 

有馬 直純(1586-1641)

晴信の長男。洗礼名はミゲル。

キリシタンの妻マルタを離縁し、徳川家康の養女を正室に。

禁教令に従って棄教、キリシタンを迫害。

 

福田 兼次(? - ?)

大村純忠の重臣で肥前福田城主。洗礼名はジョーチン。

 

長崎 純景(1548?-1622)

長崎甚左衛門。洗礼名はドン・ベルナルド。

大村純忠の勧めで所領の長崎をイエズス会に寄進。

 

小西 行長(1558-1600)

豊臣秀吉の家臣。1584年に受洗。洗礼名はアウグスティヌス。関ヶ原の戦いのあと斬首。

娘に小西マリア、孫にマンショ小西がいる。

 

内藤 如安(忠俊)(1550-1626)

小西行長の家臣。1564年受洗。洗礼名はジョアン。高山右近らとともにマニラに追放された。

京都府南丹市に「内藤ジョアン顕彰碑」があるそうです。

 

高山 右近(1552-1615)

ロレンソ了斎の話に感銘を受けて洗礼を受けた父の影響で12歳で洗礼を受ける(洗礼名はジュスト)。

信長・秀吉に仕えるが、バテレン追放令が出された後、領地や財産をすべて捨て信仰を選んだ。

1614年にはマニラに追放。家族や内藤如安らとともに長崎から船に乗る。

マニラでは大歓迎を受けるが、翌年死去。現在、バチカンが福者認定を検討しているという情報も。

 

黒田 孝高(如水)(1546-1604)

通称黒田官兵衛。信長・秀吉・家康に重用された。

1585年(天正13年)、蒲生氏郷、高山右近らのすすめで洗礼を受ける。洗礼名はシメオン。

 

蒲生 氏郷(1556-1595)

信長・秀吉に使えた戦国大名。利休七哲の一人。

1585年(天正13年)、オルガンティーノから洗礼を受ける。洗礼名はレオン。

 

その他

ヤジロウ(アンジロー)(1511?-1550?)

薩摩出身の下級武士。

マラッカでザビエルと出会い、ゴアで受洗(霊名:パウロ・デ・サンタ・フェ)。

史料で確認できる日本最初のキリスト教徒。

 

伊東 マンショ(1569-1612)

天正遣欧少年使節の主席正使。日向出身。大友宗麟の代理。

マカオのコレジオで司祭に叙階。長崎で病没。

 

千々石 ミゲル(1569-1633)

天正遣欧少年使節の正使。有馬晴信、大村純忠の代理。

1601年に棄教。イエズス会を除名。千々石清左衛門と改名。

 

中浦 ジュリアン(1568-1633)

天正遣欧少年使節の副使。西海出身。

マカオのコレジオで司祭に叙階。長崎で殉教。2008年には福者に。

 

原 マルチノ(1569-1629)

天正遣欧少年使節の副使。波佐見出身。

マカオのコレジオで司祭に叙階。ラテン語に堪能。

『こんてんつすむんぢ』の出版。マカオで死去。

 

コンスタンチノ・ドラード(1567-1620)

肥前国諫早出身の日本人。天正遣欧少年使節に随行し、印刷技術を学ぶ。

1590年にグーテンベルク式活版印刷機を持って帰国。

マカオに追放された後、マラッカで司祭となり、

1618年にマカオのセミナリヨの院長となった。

 

曲直瀬 道三(1507-1594)

戦国時代の医師。京都に医学校を創設。足利義輝、細川晴元、松永久秀などの診療も行う。

1584年(天正12年)、豊後でオルガンティノの診察をしたことがきっかけで入信。洗礼を受ける。

洗礼名はベルショール。

 

ジュリア おたあ(? -?)

朝鮮人女性。小西行長のもとで育てられ、家康付きの侍女となった。

棄教を拒んだため伊豆諸島に流された。

 

鹿児島のベルナルド(? -1557)

日本名は不明。ザビエルが日本で最初に洗礼を授けた日本人であり、日本初のヨーロッパ留学生。

ザビエルとともに日本を離れ、ポルトガル、コインブラの修道院で暮らす。

イグナチオ・デ・ロヨラに招かれてローマへ行き、ローマ教皇パウルス4世にも謁見。コインブラで死去。

 →加賀 乙彦『ザビエルとその弟子』

 

ペトロ岐部(1587-1639)

「世界を歩いたキリシタン」。マカオに追放された後、独力でローマを目指す。

エルサレムを訪れた最初の日本人。数年かけてローマにたどり着き、1620年には司祭に叙階。

1630年に日本に潜入、長崎から東北まで潜伏しつつ活動したが、1639年に捕縛され殉教を遂げた。

2008年に長崎で列福。

 

金鍔次兵衛(1600-1637)

有馬のセミナリヨで学んだ。洗礼名はトマス(後にトマス・サン・アウグスティノ)。

追放先のマカオでも学び、フィリピン・マニラで聖アウグスチノ修道会に入会。

1631年の帰国後は大胆にも長崎奉行所の馬丁となって、

桜町牢に捕われた信者や宣教師と接触していた神出鬼没の修道士。2008年に長崎で列福。

 

 

 

 

 

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