
大浦天主堂
言わずと知れた長崎のシンボル、国宝・大浦天主堂。
1865年(元治2年)の建立で、現存するキリスト教建築物としては日本最古。
フランス寺とも呼ばれたこの天主堂は、
1597年に長崎で処刑、1862年に列聖された二十六聖人に捧げられたものです。
現在ではわかりにくいけれど、処刑場の西坂の丘と向かい合うように立っています。
当時ヨーロッパのカトリック界で東洋の奇跡と言われた信徒発見の現場となったことでも有名。
信徒発見の場面を描いたものでは、永井隆『乙女峠』の冒頭の描写が素朴で好きです。
天主堂の正面に立つ「日本之聖母像」は数ある聖母像の中でも屈指の美しさだと思います。
これは信徒発見を記念してフランスから贈られたもので、
調べた所では設置されたのが1865年の6月。信徒発見はその少し前の3月だから、
発見から三ヶ月も経たないうちに送られてきて設置されたということになります。
正面から見ると少し体を傾けて見えるんだけど、後ろから見るとしっかり背筋を伸ばして
長崎の町を見守っているように見えるのがいつも不思議です。
幕末・明治初期の長崎の人々にはこの像はどんな風に見えたのでしょう。
天主堂の右手前にはド・ロ神父と鉄川与助が共同で設計、
1915年(大正4年)完成の「旧長崎大司教館」があります。
これは大浦天主堂が長崎大司教区の司教座聖堂だったからで、
1962年(昭和37年)に司教座聖堂が浦上天主堂に移ったあとも
浦上に司教館が新築される1989年(平成元年)まで
しばらくは大司教館として使われていたそうです。
右手奥にはド・ロ神父設計で1875年(明治8年)に完成した「旧羅典神学校」が建っています。
二階の一部は資料館になっていて、マリア観音や
ド・ロ神父の下で作られた版画などが展示されています。
また、遠藤周作が『沈黙』を執筆するきっかけとなった踏み絵もここで見ることができます。
他の教会とちがって入場料が必要なので、中に入ったことは実は数えるほどしかありません。
県外から遊びにきてくれた友だちを案内した時ぐらい。最後に訪れたのは一年以上前です。
まだコンデジしか持っていなかった頃なので、
あらためて写真を撮りに行きたいと思いつつまだ行けていません。
でも近いうちに行ってまた写真追加します。
※2014.11.4 写真を7枚追加しました。


信徒発見を記念して1865年(慶応元年)にフランスから送られた像。

前から見ると体を傾けているにように見えるのに、後ろから見ると背筋を伸ばして立っているように見える。


「信徒発見」に立ち会ったパリ外国宣教会のフランス人神父。

アーチの青とマリア像のクリーム色の色味がすごく好きだったのでお願いして提供してもらった写真。


一部は資料館 になっている。遠藤周作が『沈黙』を書くきっかけとなった踏絵はここに。

天主堂正面に向かって左手にある祈念坂から。右は大浦教会の尖塔。真ん中に見えるのは稲佐山。


鉄川与助によって1915年(大正4年)竣工。


