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島原の乱戦没者追悼碑
諫早市、天佑寺の境内でたまたま見つけた島原の乱戦没者追悼碑。
一揆軍側の慰霊碑などは原城跡で見たけれど、鎮圧軍側の犠牲者のための追悼碑というのは初めて見た。
島原の乱というと、松倉家の暴政に耐えかねた農民たちが一揆を起こしたが、
4ヶ月に渡る戦闘の末、幕府軍によって鎮圧されたという図式で、
原城に籠城した37000人とも言われる一揆軍は
山田右衛門作一人を除いて皆殺しにされたという悲劇にばかり目がいきがちなんだけど、
実際鎮圧に当たらされたのはほとんどが九州の大名で、
当然その領民たちも多数駆り出され多数の犠牲者を出している。
ここ諫早からは諫早茂敬(しげよし)が佐賀藩鍋島勝茂のもとで出陣している。
安部龍太郎の歴史小説『葉隠物語』などを読むと、
鍋島勝茂はまだ若い頃に関ヶ原の戦いで最初西軍についたことへの負い目をずっと感じており、
それゆえ島原の乱では汚名を返上すべく相当意気込んでいたというようなことが書かれている。
実際、佐賀藩の出兵数35000人というのは、いくら島原と領地を接しているとはいえ群を抜いて多い。
この追悼碑には92名の犠牲者の名前が彫られているらしいけど、
諫早だけで92名もの犠牲者というのはやはり追悼碑を建てずにいられないぐらいの異常な数だったのだろうなと思う。
こういう人々の犠牲もまた悲劇的。一揆軍側によって強制的に籠城させられた人々の犠牲もまた然り。
この追悼碑は、33回忌にあたる1672年(寛文12年)に建てられたものだそうで、
上部に七言律詩が、そしてその下に犠牲者92名の名前が刻まれている。

島原の乱戦没者追悼碑

七言律詩

説明板

天佑寺
[アクセス]
諫早城址の南側、県道41号線沿いにある天佑寺の境内、
正面の階段を上らずに左手に行ったところに建っています。
[リンク]
・安部 龍太郎 『葉隠物語』
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